大津地裁 意見陳述

 

 私の息子、村川康嗣(むらかわこうじ)は、平成8年11月6日にこの世に生を享け、平成21年8月24日にわずか12年という短い生涯を終えました。まさかわが子が、このような生涯を送るとは、夢にも思いませんでした。

 

 いろいろな事情で、私の両親の住む滋賀県の実家で育ったこともあり、康嗣は自然に親しみ、身近な季節の変化にも感動する、情緒豊かな子どもに成長しました。

 康嗣が小学校高学年の時に私が離婚し、康嗣と娘、そして私の3人家族になりました。それぞれが家事など、できることを協力し合って生活していました。私が交代勤務をしていましたので、実家の両親に泊まりに来てもらって子供たちの世話をしてもらうこともありましたが、康嗣は常に自分ができることは率先してやっていてくれました。「男は自分しかいないから」と責任感がとても強かったです。

 

 そんな息子に変化があったのが小学校6年の時でした。その時の担任の先生との出会いで、息子は自信をつけることが出来るようになったのです。先生は息子のいいところを褒めてあげてくださいとおっしゃいまいした。いくつか康嗣のいいところを具体的におっしゃってくださいました。小学校生活の中で、親が思っているのと同じ長所を言ってくださった先生は初めてでした。

 

 友だちにも恵まれました。康嗣は運動が苦手で、マラソンも運動会も得意ではありませんでした。けれども、6年生の運動会は、それはそれは楽しそうに生き生きと輝いていました。というのも逆立ちがうまく出来なくても、できる範囲のことを自信をもってやっていたからです。そして、そんな康嗣のことをまわりの友だちも認めてくれていました。

 

 マラソン大会も毎年いつもゴールは最後尾でした。しかし、休みたいとは一度も言ったことがありません。むしろ、康嗣はいつもこんなことを口にしていました――「かあちゃん…康嗣な、運動会もマラソン大会も苦手なんよ。そやけど頑張るわ。かあちゃん見に来てな。康嗣は、かあちゃんが応援してくれるさかいに、力が湧いてくるんよな。かあちゃんてすごいよな。康嗣はかあちゃんが大好きや。」

 私も、そういう康嗣に対して、こう言葉を返していました――「康嗣、1番という順位だけが必ずしも良いとは限らんにゃで。自分の力を出して一生懸命最後まで頑張る人が1番やとかあちゃんは思うで。そやし、頑張っている康嗣が、かあちゃんは大好きやで」

 小学校最後のマラソン大会は、康嗣に先生が伴走してくださいました。やはり最後のゴールでしたが、康嗣なりによく頑張りました。

 

 中学進学に際して、康嗣は中学受験を経験しました。慣れない塾通いにも、電車に乗って自分で責任をもって通っていました。志望した中学校には入学できませんでしたが、結局、実家から近いことと、私の母校ということ、それに学校見学した時の第一印象とで、平成21年の春に秦荘中に入学することになりました。

 女手ひとつで男の子をどう育てればよいのか――私自身の迷いもあり、共通の趣味が持てればとその年のゴールデンウイークに2人だけでボクシング観戦のために1泊旅行を計画しました。ジムの方のご厚意により、リング上で選手に花束を渡す機会もいただきました。

 2人だけの旅行は初めてでした。いつもは妹に気を使って、康嗣は「お兄ちゃんはいいから○○の好きなようにしたって」が口癖でした。初めてのボクシング観戦に目を輝かせて、はじめは少々遠慮気味に「かあちゃん、がんばれーって言ってもいいの?」と聞いて来るので、私は「思いっきり大きな声で応援したほうが気持ちが伝わるで」と答えました。

 最初は小声だった康嗣でしたが、次第に大声援に変わっていきました。その中でも、康嗣がひときわ心をひかれたボクサーがいました。今思えば何かの縁だったのでしょうか…。

 「荒川仁人さんにはオーラがある!」

 康嗣が言った言葉です。息子はとびきり優秀ではなく器用でもありませんでしたが、誰よりも努力家でした。その康嗣が観戦後に、こう言いました――「かあちゃんボクシングってすごいよな!こつこつ努力してリングの上に立ってるんやもんな。康嗣もがんばるわ。康嗣な、夢見つけた。建築家になってかあちゃんの家建てたるわ。ほんで、つーさん(注:荒川選手のマネージャー)の会社で働かしてもらう。母ちゃんの次に尊敬できる人や。かあちゃん今度はいつ見に連れてきてくれる?今度は○○も連れて来たろう。」

 

 ボクシング観戦で大声援を送ることや、大観衆の前でリンクに上がり選手に花束を渡すという経験も自信につながったようでした。ジムのマネージャーの方とも話をする中で、それからメールや電話でのやりとりが始まりました。そしてその年の8月3日に、今度は家族3人で応援に行くことを決めました。

 

 そうやって夢を得る中で、中学生活をスタートさせた康嗣に、ひとつの目標ができました。喘息があり、スポーツらしいことはしたことがなかった康嗣でしたが、「勉強は努力すればなんとかなるけれど、将来に向けて体力を少しでもつけたいから」と、1年だけ柔道部に入部することを本人が決めたのです。

 

 親としては、今までスポーツ経験が無い状態での柔道部入部は、はたして大丈夫か心配でした。それで、担任、顧問、副顧問のそれぞれの先生に再三にわたって息子の体調みんなと同じことはできないから長い目でみてやってほしいことをお願いし、さらに主治医も訪ねて「しんどかったら休めばいいから」と言って頂いて、柔道部入部を認めました。

 

 ――しかし、実際には、休めなかったのです。

 子どもたちは少しでも「休みたい」と言ったならば顧問から暴力をふるわれていたのです。柔道部の練習も、康嗣自身はおそらくそこにいるだけで精いっぱいだったと思います。それを、頑張っているようには見えないからと、大のおとなが子どもに対して「しごき」や「リンチ」同然の懲罰行為をすることがゆるされるのでしょうか?

 ――自分のその日の気分で、子どもたちを呼び出して、顔を叩く必要があるのでしょうか?

 ――どうして、何度も叩かれなければならなかったのでしょうか?

 ――そういう暴力が「教育」の名にあたいするのでしょうか?

 

 自分よりはるかに大きな男の人に叩かれた恐怖は計り知れません。怖かったと思います。そして、そういう日常的な暴力の結果、息子は命を落としましたそれが、悔しくて悔しくてなりません。

 

 世間体を気にしてか、マスコミの批判から自分を擁護したいのか、村西俊雄愛荘町長は「責任は町にある。誠意をもってご遺族と話合いをしています」とカメラの前では発言しています。しかし、ただの一度でさえ、遺族に対して連絡を取って来たことはありません。

 おもて向きのそうした村西町長の発言が新聞紙面に載ったせいか、まわりからは、むしろ遺族がごねているかのように受け取られ、本当の事情を知らない人からは「町も責任を認めているのに、どうして裁判などするのか?」と聞かれることもありました。息子が亡くなったことに加えて、村西町長らのこうした卑劣な態度に私たち遺族がどれだけ苦しめられたことでしょう。

 息子が亡くなって、この夏で2年が経ちました。その2年ものあいだ、いったい何があったのか、そして誰にどういう責任があるのか?――あいまいなまま時間だけが経過しています。

 

 この春(注:2011年)、秦荘中3年生が沖縄方面に就学旅行に行きました。その旅行中の4月29日、沖縄国際通りで、柔道部員のF君が口げんかから同級生を大外刈りで相手をコンクリートの地面に投げつけました。そして、F君はこう言い放ったそうです――「柔道は人を殺せるんやからな!」

 幸い同級生は打ち身程度で大事には至りませんでした。しかし、無抵抗の同級生を自分の怒りに任せて投げ飛ばすような柔道部員の素行を耳にして、相手のことを思いやり、礼節を重んじるはずの柔道を、秦荘中ではどのように指導して来たのか――疑問に思いました。同時に、絶対に起きてはならない死亡事故での責任が明らかにされないままの学校現場では、子どもたちは命の尊さについて学ぶ機会も無いのかと、ふと感じた次第です。 

 

 親は誰でもいろいろな困難を抱えて今を生きています。しかし、そういう困難な今を生きていけるのも、未来につながる子どもがいるからこそなのです。その「未来」を奪われ、それに加えて、地域からはあらぬことを言われ…、いったい被害者である息子が何をしたというのでしょうか?

 

 どうか…公正な司法の場で、息子の無念を晴らしてください。