第1 はじめに

 

 私の息子の康嗣(こうじ)は,滋賀県愛荘(あいしょう)町立秦荘(はたしょう)中学校に通っており,柔道部に所属していました。しかし,柔道部の練習中に,しごきのような練習を課せられ,ついには顧問の一宮良太教諭に思いきり投げられたことで意識を失い,そのまま亡くなってしまいました。わずか12年の短い生涯でした。

 康嗣を失くした私たち家族の悲しみ,康嗣が亡くなったことの大きな背景事情となる一宮顧問の暴力の実態,柔道の練習中に康嗣の身に何が起こったのかを誠実に説明しない学校側の隠蔽(いんぺい)体質,愛荘町の不誠実な対応,それらにより,私がどれほどの苦痛を強いられたのかについて,以下のとおり述べたいと思います。

 

 第2 柔道部への入部の経緯

 

 平成21(2009)年4月,康嗣は,秦荘中学校に入学しました。康嗣は,喘息(ぜんそく)の持病を持っており,運動は苦手な子供でした。しかし,体力を少しでもつけたいからと,1年だけ柔道部に入部することを決めました。

 康嗣が小学校6年生のときのゴールデンウィークに,私と康嗣の二人だけで1泊旅行をし,ボクシング観戦をしたことがあったのですが,康嗣はリングの上のボクサーの姿に感動し,「かあちゃん,ボクシングってすごいよな!こつこつ努力してリングの上に立ってるんやもんな。康嗣も頑張るわ。」と話していました。康嗣は,器用ではありませんでしたが,誰よりも努力家でした。康嗣は持病の喘息があって,運動は苦手でしたが,精一杯努力して,少しでも体力をつけようと,柔道部への入部を決意したのだと思います。

 第3 喘息の持病があるために、配慮して練習させて欲しいと再三にわたり申し入れをしていたこと

 

 康嗣が自分で柔道部への入部を決めたのですが,親としては心配だったので,私は康嗣の担任,一宮顧問,木村清和副顧問の先生方に対して,再三にわたり,「康嗣は喘息を持っているので,他の部員の生徒さん達と同じ練習をこなすことはできない。康嗣のペースでの指導をお願いしたい。他のお子さんのようにできなくても,長い目で康嗣のことを見てやってほしい。」「喘息もあるので,他の生徒さんと同じ練習ができないこともある。その時に,他の生徒にずる休みをしていると思われているようで,それが辛(つら)いと康嗣は言っている。喘息のことを部員のみんなにも伝えて欲しい」とお願いしていました。

 一宮顧問とは,何回か直接話をすることがあったのですが,私の申し出に理解を示してくれ,「しんどかったら休んでもらったらいいです。そのときは自分に言いにきてほしい。練習メニューも康嗣君の体調に合わせて配慮します」と言ってくれていました。また,一宮顧問は,「康嗣の喘息のことや体調のことは,私から柔道部員のみんなに伝えます」と約束してくれました。

 私は,一宮顧問の言うことをすっかり信じており,康嗣に配慮した練習を考えてくれ,康嗣がしんどいときは,休ませるなどの配慮をしてくれているものと思い込んでいました。

 まさか,一宮顧問が日常的に柔道部員に対して暴力をふるっていて,柔道部員が「練習を休みたい」と言うのを一宮顧問に言い出せないような雰囲気であったとは,このときは知りませんでした。

 康嗣からは,日々の練習について,「しんどい」と言うのは聞いていましたが,詳しい練習内容や一宮顧問の暴力については聞いていませんでした。康嗣が小学校高学年の頃に,私は離婚をしたのですが,康嗣は,私が必死で父親代わりになろうと頑張っている姿を見て,自分もしっかりしなくてはいけないと常に思っていたようです。私に心配をかけまいと,一宮顧問のしごきの状況や,暴力のことについて,私に話をしなかったのだと思います。

 

 第4 事故当日のこと

 

 平成21年7月29日,私のもとへ「康嗣が救急車で病院に運ばれた」との連絡がありました。私は,あわてて搬送先の病院に向かいました。病院に着いたとき,受付で「息子が救急車で運ばれたと聞きましたが,どこに行けばいいですか?」と聞きました。受付の人からは,「ICU(注:集中治療室)に行ってください」と言われました。この時は,それほど重体であるとは夢にも思っていませんでした。

 待合室に着いたとき,数人の人がいました。今となっては,私の父(康嗣の祖父)の顔から血の気が引いている姿しか記憶に残っていません。

 看護師さんから,康嗣の手術をする前に,「(康嗣に)一目会ってください」と言われ,ICUの中に入りました。康嗣がストレッチャーに寝かされていました。康嗣はピクリともしません。目も半開きでした。私は涙が溢(あふ)れ出て,声にならない声で,康嗣の名前を呼びました。しかし,反応は全くありませんでした。目の前が真っ白になり,立っていられなくなって,看護師さんに支えてもらいました。それからすぐに,康嗣は手術室に運ばれました。それからは,何が何だかわけが分からず,「康嗣が死んでしまう…。康嗣が…。」と,康嗣が死んでしまうかもしれない恐怖で胸がつまりました。手術前に,執刀医の先生から術前の話がありましたが,私は,何かふわふわしている状態で,何が何だかわかりませんでした。とにかく康嗣が危険だということだけで,私はパニック状態になっていました。しかし,この時は,康嗣が手術すれば治ると信じていました。というより,そう信じたかったのかもしれません。

 廊下には,康嗣と共に,救急車に乗ってきた谷田宗人学年主任と一宮顧問がいました。手術中,一宮顧問が声をあげて泣いていました。私は,康嗣が頑張っているのに,一宮顧問が泣いていることに大変腹が立ち,待合室から出て,「康嗣は生きるために今頑張っているんや!そんなときに泣き声なんか聞かさんといて!」と叫びました。

 それから,また茫然とふわふわした状態のまま,手術が終わるのを待ちました。

 

 第5 入院中のこと

 

 手術が終わり,執刀医の先生から,康嗣の容体について説明があり,とにかく危険だと言われました。私は,「できるだけのことをしてやってほしい」と先生に必死で頼みました。

 この時から,私は自分自身を責める日が始まりました。

 手術を終えた康嗣には管(くだ)がいっぱいつながれていました。その姿をみて,私は,声を出さずに泣いてばかりいました。康嗣は何も言わず,いつ亡くなってもおかしくない状態でしたので,私はわけが分からず,パニック状態でした。息がつまり,お腹が痛くなって胸がむかつきました。この時から,何度もトイレで吐き,お腹も下しました。1日1日が長くて怖くて,「誰でもいいから康嗣を助けて」と必死に祈りました。できることなら,私が康嗣と代わってやりたいと思いました。それから,康嗣の姿を見ているのが辛くなり,傍(そば)にずっといることができませんでした。ICUと待合室を出たり入ったりしていました。

 待合室に学校の関係者がいましたが,日を追うごとに一宮顧問が康嗣にして来た「しごき」の状況がわかり,「康嗣は一宮顧問に殺されたのだ」と感じました。学校関係者の姿を見ると,嘔吐(おうと)して目が回りました。

 こうした悲しみは,私だけでなく,康嗣の祖父母や康嗣の妹も同じだったと思います。しかし,私は,その時は周りに配慮することができませんでした。

 後日,執刀医から,康嗣の死(注:脳死状態)を宣告されました。死んでしまう息子の傍に付き添っていることは,私にとって大変酷(こく)でした。家族写真が最後になると思い,病室にカメラやビデオを持って来てもらって,康嗣の様子を撮影しました。死を宣告されましたが,それでも康嗣が生きようと頑張っている姿を残してやりたいと思いました。康嗣の様子を撮影するのは,とても辛く,やはり康嗣と代わってやりたいと思いました。

 康嗣が事故に遭(あ)ってから,康嗣と共に暮らしていたアパートには戻れませんでした。そこには,元気な康嗣の姿しかなかったからです。医師からは康嗣の死を宣告されているのですが,アパートには康嗣の元気だった頃の思い出しか無く,そのアパートにいるのが耐えられなかったのです。康嗣の幻を見て余計に辛くなりそうだったので,病院の近くのホテルで仮眠をすることにしました。

 康嗣の祖父母が暮らす,私の実家にも帰ることができませんでした。そこもまた,「元気だった頃の康嗣が大好きだったおじいちゃんとおばあちゃんの家」だったからです。

入院中,柔道部の生徒さんや保護者の方がお見舞いに来てくださいました。最初はどなたも同情して下さり、協力的でしたが,康嗣のことが新聞で取り上げられ,学校や教育委員会が誠実に対応しているかのような報道がされると,それまで同情的であった方々が態度を一変されました。「学校側は謝罪の気持ちがあるのに,いつまでそれを受け入れないつもりなのか」――と責められたり,苦情を言われたりするようになりました。

 私の実家の周りの人たちが,康嗣のことをよく知らないにもかかわらず,ブログ等にまるで全ての事情を知っているかのように,憶測(おくそく)で康嗣のことを書いたり,「村八分のようなことをされているが自分は味方だ」と書いて,事情を知らない地域の人々に私たちが村八分にされているかのような、事実と違う印象を与えたりするようなこともあり,とても不快な経験もしました。

 また,親しく話していた人たちが,関わりたくないのか,何を話せばいいのかわからないのか――とにかく私たち家族を避けるようにもなりました。

 日を追うごとに,事故当日の柔道部の練習の状況がだんだんとわかってきたため,学校も信じられなくなりました。私たちはやがて誰も信じられなくなりました。

 報道関係者の方に「取材をさせて欲しい」と言われましたが,私には対応する気力がなく,すべての窓口を康嗣の伯父に当たる私の兄に頼みました。しかし,「母親でないと伝わらないことがあるから」と言われて取材に協力しました。こうして,何とか取材に協力することもありましたが,康嗣が死ぬとわかっていながらも,同時にいつ死ぬかわからない状況でしたから,私は恐怖感で押しつぶされそうでした。毎日毎日…寝られませんでした。横になっても泣けて来て,苦しくて目がまわって眠れませんでした。

 康嗣の入院中,私はそれ以外にも腹痛・嘔吐(おうと)・頭痛・眩暈(めまい)などの変調をきたしていたのですが,その様子から私は病院に行くよう勧められ,心療内科を受診するようになりました。

 

 第6 康嗣が亡くなった時の心境

 

 平成21年8月24日,ついに康嗣の心臓が止まりました。康嗣の体はまだ温(あたた)かいのに,医師から死亡時刻を告げられて,私は涙がとまりませんでした。ずっと康嗣の体に触(さわ)っていたかったけれど,「亡くなったら解剖する」と前もって警察から言われていたので,すぐに東近江署に連絡しました。康嗣の遺体が警察に引き取られ,警察の車両に乗せられました。バンタイプのその車両に遺体が乗せられるとき,私はとても嫌でした。康嗣が固い鉄板の上に乗せられるのが耐えられませんでした。康嗣が無機質の空間に乗せられるのが苦痛だったのです。そんな母親の気持ちは理解されないままに,康嗣は警察へと連れて行かれました。そして,私たちは実家に戻ることになりました。私は,娘と一緒に帰りました。娘は無言で,私は泣きながらハンドルを握って実家に帰りました。

 康嗣が司法解剖から戻ったのは夕方でした。康嗣は入院中とずいぶん様子が違いました。病室では温かかった康嗣は,もう冷たくなっていました。私は康嗣にすがりつき,必死にこらえながら泣きました。康嗣の目は,入院中飛び出てきてしまって,瞼(まぶた)が閉じなくなっていたので,テープで留めて無理やり閉じていました。しかし,実家に戻ってきた康嗣は,テープが無くても瞼を閉じていました。入院中,康嗣の頭は腫れ上がっていて大きかったのに,司法解剖で脳が取り出されたためか,康嗣の頭は小さくなっていました。

 帰って来た康嗣の姿を見て,また辛さが込み上げてきて泣きました。それと同時に――私は康嗣の姿を覚えておこうと必死でした。指先の爪の形,耳の形、そういった康嗣の一つひとつの姿形をいつか忘れてしまうのではないかと怖くなり、康嗣の冷たい遺体を前に必死に目に焼き付けておこうとしていたのです。

 けれども、時は非情で,私が康嗣とじゅうぶんな別れをするのを待ってはくれませんでした。私の気持ちと関係無く葬儀の打ち合わせが始まりました。「葬儀で使う写真は? 葬儀の場所は ?祭壇のランクは…?」と矢つぎばやに決めなければならないことに悩まされました。私はどうやって自分の正直な気持ちを抑えて、それらの事務的なことをこなして行けばよいのかわかりませんでした。そのようなことを考えるのがたまらなく嫌でした。通夜そして葬儀…と,何かふわふわして,何が何だかよくわからないうちに,周りに急(せ)かされながら「仕方ない」という言葉に押されながら,まるで夢の中にいるかのような状態の中で,時間が過ぎて行きました。私の気持ちは誰にも理解はされませんでした。

 焼き場では,康嗣との最後の別れも周りに急かされました。私は康嗣の遺体にすがりつきたかったけど,それは許されませんでした。あっという間に康嗣は焼かれました。私も康嗣と一緒に焼いてほしかったです。康嗣についていきたいと思いました。康嗣を一人で行かせたくはなかったのです。

 それから数時間後、私は康嗣の骨を拾いに行きました。大きかった子が,元気だったわが子が骨になってしまい、無念でとても苦しくなりました。必死に耐えながら、わが子の骨を拾い続けました。

 康嗣の事件があった7月29日以降、私は夜眠れませんでしたが、康嗣が骨になった後も眠れない日が続きました。少しでも康嗣のそばに居たくて,骨壺(こつつぼ)の近くで過ごしました。私は,ふつうなら体に覚える感じ…たとえば温かさや寒さ、空腹感などを感じることが無くなりました。息を吸っても吸っても息苦しく,「少しでも早く康嗣のもとに行けますように」と祈る毎日でした。

 私も娘もPTSD(注:心的外傷後ストレス障害)になりました。娘は学校や教師が怖くなり、自分の兄の事件に関係する人たちを憎むようにもなりました。どんなことにもがんばる気持ちを無くし、「がんばっても死んでしまうやん」という言葉を康嗣の死後、よく口にするようになりました。

 娘の状態に気づいてくださったのは,康嗣が入院していた病院の小児科の先生でした。この小児科の先生が,娘のことが心配だからと,精神科の受診を勧めてくださり,精神科の予約まで取ってくださいました。受診をさせたところ,転地療養を勧められましたが、当時はすぐに転居することができませんでした。

 そのような中で,娘が雨の降る中,家を飛び出すという出来事がありました。祖母があわてて連れ戻してくれましたが、娘は「お兄ちゃんのところに行きたかった。川に飛び込んだらお兄ちゃんのところにいけると思った」と泣きながら話をしてくれました。私は康嗣の遺影の前で娘を抱きしめながら「母ちゃんにはもう○○しか居ない。○○まで居なくなるようなことが無いようにして。お願いだから生きて欲しい」と彼女の名前を呼びながら、泣きながら語りかけました。娘も泣いていました。

 

 第7 滋賀を離れてから現在まで

 

 娘が中学に入学する,平成23(2011)年3月末に私たちは滋賀を離れ、現在の住まいに転居しました。翌4月に娘は中学校に入学し,生活の環境も変わったことで,周囲の私たち遺族を見る冷たい視線からも解放され,しばらくは娘もわりあい元気に中学校に通っていました。

 しかし,5月を過ぎて自分の誕生月(6月)を迎える頃…つまり兄の年齢(12歳)を超える直前から,娘の様子が再びおかしくなりました。娘はいつも,兄である康嗣の背中を見ながら大きくなっていたので,その兄が経験したことがない年代に自分が入る不安に、足がすくんで学校に行けなくなったのです。

 周りの人に助けられながら,康嗣が慕っていた人に心を開いて相談することで,娘は何とか今は学校に行けるようになりました。しかし,娘は人から兄弟のことを聞かれると,「ひとりっ子」と答えるそうです。「兄がひとりいたが、今はいない」と正直に言うと,そのいきさつも話さなくてはならず,そのたびに他人から同情されるのが嫌だからだと聞きました。娘は,兄がいたこと、その兄がいなくなってしまったこと、それにともなう様々なことを自分が経験して生きて来たこと、その他多くのことを今も心の中に秘めたまま生活しています。

 私の両親(康嗣の祖父母)にとって初孫でもあり,康嗣の誕生をとても喜んでくれました。康嗣が赤ん坊のときから両親の家に預かってもらうことも多く,康嗣は両親に大きくしてもらったようなところもあります。

 康嗣は私の両親の家で「じいちゃん,康嗣が手伝ったろう」とよく手伝いをしてくれました。春の田植えもその一つです。苗箱を運んだり,空箱を洗ったり,大人顔負けで働いてくれました。そんな康嗣を両親が頼りにしていたのは言うまでもないことです。中学校は両親の家から通った方が近く,娘も「中学校はお兄ちゃんと一緒のところに行く」と言っていたので,娘が中学校に上がった時は,暮らしていたアパートから私の両親の暮らす実家に戻る予定でした。両親と康嗣と娘と私と…、みんなで揃(そろ)って暮らすはずでした。

 私の父は、康嗣が亡くなってから「おじいは、長いこと生き過ぎたね」と遺影に話しかけたり,「康嗣…、康嗣…」と頻繁(ひんぱん)にひとりごとを言ったりしました。自分を責めたり,康嗣に感謝の言葉を述べたりということもあります。生きる希望だった康嗣を失った喪失感は計り知れず、高齢になった私の父は、よく泣いています。そんな父の姿を見て,私はさらに辛さが増します。私の母は,必死に耐え、自分の感情を押し殺しています。

 子どもは、親だけではなくまわりの者にとって〈生きる希望〉なのです。康嗣もそうでした。私を含めて、まわりの者の楽しみであり、生きる支えであり、そして…かけがえのない未来でした。

 康嗣はボクシングジムのあるマネージャーの方に憧(あこが)れ,そのマネージャーの方の職業でもある「建築家」になることが将来の夢でした。そして「かあちゃん,康嗣な…,親孝行するでな」「かあちゃんの家,康嗣が建てたるでな」と私に向かって言うのが,康嗣の口癖でした。自分の思っていること、考えていることを、母である私によく話してくれました。康嗣はとても優しく,思いやりのある子でした。また自分の妹のことも「かあちゃん,○○のことは康嗣にまかしとき。康嗣が守ってやるからな」と言って、実際に妹の面倒もよくみていました。私の誕生日や「母の日」には必ず手紙を書いてくれる息子でした――そんな康嗣が,もういません。

 

 第8 一宮顧問,学校側,教育委員会及び愛荘町の対応

 

  (1) 一宮顧問の対応

 平成21年9月25日付で,一宮顧問が秦荘中学校を依願退職しました。私は警察から事情聴取をされた際,「一宮顧問が遺族に『話をする』と言っているので,連絡をしてみてはどうか」と言われていたのですが,そのような話をしていた矢先の,依願退職でした。そして,私たちにきちんと話をするどころか,忽然(こつぜん)と姿を消してしまったのです。まるで「遠くに逃げれば、事が収まる」とでも思っているかのような短絡的(たんらくてき)な行動に、腹立たしさと憎しみが倍増しました。同時に,そうやって加害者である本人が行方をくらましたことで,心の中が、落胆と焦燥感(しょうそうかん)と虚(むな)しさでいっぱいになりました。

 

  (2) 那須教育委員の発言

 康嗣が入院してから亡くなるまでの約1ケ月の間に,愛荘町の那須純子教育委員が,「秦荘中の柔道部員が、(柔道の)大会に出場したいので,それを許可する旨の手紙を書いてほしい」と私に頼んで来たことがありました。

 康嗣は学校の柔道部での練習中に一宮顧問から暴行を受けて無残な姿となり,その時は医師から「死亡宣告」もされていた状況でしたので、私にそのような依頼をしてくるのは,あまりにも無神経だと感じました。

 

 

  (3) 北村校長・教育委員会の対応

 平成22年1月12日,康嗣のことがテレビで報道され、その中で,北村孝弘校長及び辻次長へのインタビューも放映されていたのですが,北村校長は,康嗣の頭部に外傷が見られないことを取り上げ,康嗣の死亡原因が「当日の柔道部の練習に起因しないと考えている」と言いました。辻孝志次長は,「倒れたのが柔道の練習中だからああなったが,あれが自宅で倒れていたらなら,また違ったことになった。」とまで言いました。

 このように,学校側は,自ら何の調査もしていない段階で,「事故の原因は柔道部の練習ではなく,まるで康嗣自身に原因がある」かのような見解をマスコミに流し続けたのです。

 そのため,そのようなマスコミ報道に接した地域の人たちは,校長や教育委員会の実際には無責任きわまる発言によって,あたかも康嗣の側に過失があって康嗣が亡くなったかのように思い込むようになりました。私と地域の人々との間には距離ができ始め,私は地域の人から心無い言葉を直接的にも間接的にも投げかけられるようになったのです。

 さらに、私が取材を受ける自体がまるで悪いかのような周囲の目にも、私は傷つけられました。私には「取材を受ける」ということでしか,康嗣の身に起きたことを社会に訴える方法が無かったのです。

 何も好きこのんで取材を受けたわけではありません。愛するわが子が死線をさまよっている時に、できることなら,取材など受けたくないというのが親の率直な思いのはすです。事件直後に限らず、取材を受けるたびに,何時間も各社ごとに同じような話をしなければならず,また話をするたびに、たとえ時間が過ぎている時にでも、私の意識は,「あの日」に戻り,大変つらくなっていたからです。

 

  (4) 第三者委員会の設置と愛荘町長の発言

 平成22年1月20日,愛荘町が康嗣の事故原因の究明のために,第三者による検証委員会を立ち上げるというニュースが私の耳に入りました。第三者委員による検証委員会の立ち上げについて,私たち遺族には一切連絡がなく,私はニュース報道でそのことを知った兄から、検証委員会設置の話を聞いたのです。検証委員会の設置は,事件から6か月以上も経過しており,あまりにも設置が遅過ぎると思いました。

 私が聞いた話では,事故当初,村西俊雄町長は,調査委員会の設置に対して消極的だったそうです。しかし,テレビ等の報道で,この事件が大きく報道されたことにより,調査委員会を設置せざるを得なくなり判断したのだと思います。

 ところが調査委員会に選出された委員は,遺族の意向はまったく反映されておらず、愛荘町が独自に選出したものでした。その内訳は,学識経験者が2名,柔道の専門家が1名,脳外科のドクターが1名,そして…なぜか滋賀県の教育委員会のメンバーである県の職員が1名含まれていました。県の教育委員会の職員が委員として加わった状態で、その検証委員会で,公平でかつ公正な判断が下せるのか,私はそのような人選に非常に懐疑的でした。その検証委員会で,私は発言をする機会を得ましたが,それは「遺族側の聞き取りも行うように」と,私から申し入れてようやく実現したものでした。

 平成22年7月14日,検証委員会による事故検証報告会が開かれました。

「事故報告書」には,一宮顧問が行っていた柔道部の練習は,健康状態・技能レベルを考えた場合,初心者にとって相応(ふさわ)しい内容ではなく,被害者にとっては強行で限界を超えた内容であったと記載されていました。一宮顧問の指導は不適切であったと明記されていましたが,事故報告書でありながら,事故の原因については言及しておらず,一宮顧問の監督者である学校や町の責任についても,ふれられていませんでした。

 検証委員会による報告を受けて,村西町長は,記者会見を開き,「事故の責任は,一宮顧問,管理者である秦荘中学校の北村校長,秦荘中学校の教職員,愛荘町教育委員会,愛荘町のすべてにある」として,「遺族に対して謝罪を行う,遺族に対して償いたい,継続して対話していきたい」と発言しました。

 しかし,そのように村西町長は発言したはずですが,その発言内容は、これまで何一つ遺族に対して行われていません。公式の「謝罪」もされていなければ,「継続した対話」もされていません。第三者委員会による検証報告後,そもそも,愛荘町から遺族に対して、ただの一度の連絡すら無いのです。

 村西町長は,再三(さいさん)にわたり,メディアに対して,町や一宮顧問の責任を認める旨(むね)の発言をしていますが,これは地域の人々に「町が遺族に誠実に対応している」と信じ込ませるための“パフォーマンス”であると思っています。

 現に,愛荘町は「責任は行政にある」と言いながら,この裁判では,当初から,事故の責任を認めていませんでした。マスコミに対しては「責任は行政にある」ともっともらしく吹聴(ふいちょう)しながら,裁判では「責任を認めない」という,愛荘町の矛盾した二枚舌が,私たち遺族を地域から孤立させることになったのです。

 平成23年8月23日付の村西町長のブログには「今日は,柔道訓練中に亡くなられた村川康嗣さんのお墓に教育長,次長,中学校長,学校教育課長とともに5人でお参りいたしました。明日が3回目のご命日です。教育長の導師でお経を上げ,お線香,お花を手向けさせていただきました」とあります。村西町長は,第三者委員会の事故報告書の記者会見以来,遺族に対して一度の連絡もしていないにもかかわらず,「誠意をもって遺族に対応している」ことを示す“パフォーマンス”として,遺族の了承も無しに,康嗣の墓参りをし,それをわざわざ自身のブログに掲載したのです。

 ましてや北村校長は,業務上過失致死罪で私たちが刑事告訴している相手です。刑事告訴されている当の人間を康嗣の墓前に同席させることが,私にとって,遺族にとって,どれほど辛いことか,どれほど遺族を愚弄(ぐろう)することになるか――少し考えれば、誰でもわかることだと思います。

 遺族の気持ちを第一に考えるよりも,「愛荘町が誠意をもって遺族に対応している」というイメージを外部に示したいとのあからさまな意思が見て取れ,私は、その村西町長の墓参りのブログ記事を見た時,憤(いきどお)りしか感じませんでした。

 

 第9 本件事故後に発覚した一宮顧問の暴力

 

  (1) 一宮顧問の暴力

 本事件の後,柔道部の生徒に対する聞き取り調査等により,一宮顧問が日常的に柔道部員に対して,暴力がふるっていたことがわかって来ました。

 秦荘中学校の柔道部では,一宮顧問が練習の内外で,ひんぱんに柔道部員を平手で殴っていました。時には足で蹴ることもあったようです。

 殴られる理由は様々で,「練習中に気合が入っていない」と言っては殴り,「練習を休ませて欲しい」と顧問に言いに行くと殴り,「試合に負けた」という理由で殴ることもあったそうです。

 北村校長は,私の兄との電話で,一宮顧問が平手打ちを行っていた事実自体は認めましたが,「生徒の成長を願い,生徒も納得した上での指導である」と言いました。しかし,私には「試合に負けた」とか,「練習を休みたい」とか,その程度のことで殴られることが“指導”だとは到底(とうてい)思えません。

 康嗣の同級生で,同じ柔道部員だったS君によると,康嗣もまた,一宮顧問から殴られていたそうです。北村校長に対して,一宮顧問の行為について,「きちんと調べて欲しい」とお願いしましたが,北村校長からは「当事者である康嗣君がいないので調べようがない」と言われました。本来,生徒の安全を守るはずの学校側が「死人に口なし」とばかりに事実関係を明らかにしない態度に、「それが教育者としての態度か?」と憤りを感じました。

 息子の死亡と、秦荘中学柔道部で日常的に行われてきた数々の暴力行為は,無関係ではありません。そうした暴力行為の結果として、息子の死があるのです。体調が思わしくなくて部活動を休みたくても,顧問からの平手打ちが恐くて,それを言い出すことができず,そうした…まったく必要の無い子どもたちの我慢の末に,起こるべくして起こった死亡事故なのです。

 

  (2) 教諭への口止め

 本件の直後,柔道部の副顧問であった木村教諭は「一宮顧問が試合中に生徒を平手で殴ったことがある」と私の兄に語っていました。北村校長も,前述の通り,兄との電話の中で「顧問による平手打ちなどの行為があったこと」を認めつつ,「それは生徒の成長を願う指導であり,体罰ではない」旨の発言をしています。

 しかし,平成22年7月14日の検証委員会の報告があった日の記者会見で,藤野智誠(ちじょう)教育長は,「体罰はありません。日常的に暴力行為は行われていません」、「暴力行為があったのかどうか,秦荘中学校の教職員に確認をしたところ,教職員全員がそのような現場を見ていない」と言いました。

 「教師全員が」「暴力行為を見ていない/知らない」というのは全くの嘘です。木村教諭も北村校長も「体罰であると認識している」とは言っていませんでしたが,「一宮顧問が平手打ちを行っていたこと」自体は認めていたのです。藤野教育長が上記のような発言をした後,兄は康嗣の学年主任であった谷田教諭に,一宮顧問の暴力について尋ねました。すると,谷田教諭は「このことについては『何も話すな』と北村校長から指示が出ている」と答えたのです。

 私は,こうまでして〈暴力〉を隠蔽するやり方を,到底許すことはできません。本件の背景にある暴力行為を隠蔽したままの状態では,本件のような痛ましい事故は絶対に無くならない,再発防止のためにも見逃してはいけないことと思っています。

 

 第10 提訴するに至った思い

 

 前述の通り,康嗣は体力をつけるために柔道部に入部しました。「康嗣には喘息があって,運動も苦手で,他の生徒さんとは同じようにできないから,場合に応じて休ませて欲しい」と顧問や担任にお願いしていた中で事件が起きました。実際には,康嗣から「練習を休むこと」を言い出すことができないような状態でした。私たち遺族は,他の柔道部員や保護者から,ふだんの練習の様子について聞き取りをしましたが,「(部員が)練習を休みたいと言ったならば,一宮顧問から殴られるので,練習を休みたいとは言い出しづらい」という話を聞いています。

 おそらく,康嗣は柔道部の部活動に参加すること自体が精いっぱいで,それだけで康嗣は十分に頑張っていたと思います。しかし,顧問の目からは頑張っているようには見えず,「しごき」に等しい懲罰行為を繰り返していたのでしょう。そのような顧問の行為は許されるはずがありません。

 どうして、中学生をそのように何度も叩かれなければならなかったのでしょうか。自分よりはるかに大きな男の人に叩かれる恐怖は計り知れません。怖かったと思います。そのようなたび重なる暴力行為の果てに、康嗣は〈いのち〉を失ったのです。私は、悔しくて、悔しくてなりません。

 親にとって、子どもは希望のある未来です。生きる支えです。その希望ある未来を奪われ,地域からは事実ではないことを言われ続けました。ある柔道部員の保護者は――「康嗣君はもう亡くなっているからいいじゃないですか。うちの子は生きているんです。あのことでこちらは傷ついているんですから、これ以上そっとしておいてほしい」と、事件について発言することを控えるように求めて来ました。

 村西町長は、マスコミに対して「責任は町にある。誠意をもってご遺族と話合いをしています。」と言うものの、実際には、ただの一度でさえその言葉が実行されたことはありません。けれども、そういう村西町長の言葉のからくりを知らない人たちからは――「町もああやって責任を認めているのに、どうしてあなたは裁判をするのか?」と言われたこともあります。そうした町ぐるみの卑劣な態度が、私たち遺族を苦しめていることが理解されていないことも残念でした。

 私のような遺族の立場にある者が,何らかのアクションを起こさなければ,学校現場で子どもたちが〈いのち〉を落とすといった事件・事故は,時間とともにすぐに風化してしまいます。そして、愛荘町側が会見した通りに,まるで康嗣自身に落ち度があったかのように地域の人たちが誤解させられたように,まわりには誤解がそのまま実際にあったこととしてされてしまうのです。

 何の落ち度もない康嗣に何らかの過失があったと誤解されるようなことは,遺族として我慢できず,康嗣の汚名をそそぎたいと思いました。しかし、事件後の検証も曖昧(あいまい)で,事件の責任の所在も不明確なままでした。このような状況では,同様の事故の再発防止対策も講じることはできないと思います。あの日のできごとについて、遺族自身が調べあげ,一宮顧問が康嗣に対しておこなったことが「しごき」であったことが判明しました。一宮顧問の暴力行為が康嗣を死に至らしめたのです。学校や町は,このことを深く受け止め,責任を明確にし,類似した事件・事故の再発防止のためにも,康嗣の〈いのち〉を奪った、その責任をとってもらいたいと思います。

 

 

 

 第11 提訴後のこと

 

 私たちからの提訴後,愛荘町は事故の責任を否認し,何の根拠もなく康嗣の既往症(きおうしょう)について言及するなど不誠実な姿勢をとってきました。ところが、愛荘町は,ある時、一転して過失を認め始めたのです。それまでの態度は何だったのでしょうか。そして,愛荘町が過失を認めると簡単に述べただけで,結局、康嗣がなぜ〈いのち〉を落とさなければならなかったのかが分からないまま裁判は終わってしまうのでしょうか。
 また,「愛荘町が過失を認めた」という報道がされたことで,周囲の人から,「裁判でも町が過失を認めたのだから,よかったじゃない」とか,「もう忘れなさい」などと言われました。私たち遺族にとって,この事件を忘れることなど到底できません。私たち遺族は,相変わらず愛荘町の主張に翻弄(ほんろう)され、苦しめられているのです。
 私は,大津地裁での全ての手続に出廷しています。康嗣と過ごした滋賀県の地に足を踏み入れることが,私にとって,どれだけ苦しいことかお分かりでしょうか。それでも,私が母親として康嗣にしてあげられることは「裁判によって真実を解明することしかないのだ」と思って,裁判所に通っているのです。
 どうか,裁判所におかれましては,私たち遺族の思いを汲み取っていただき,公正な審理をしていただきますようお願いいたします。

以 上難な今を生きていけるのも、未来につながる子どもがいるからこそなのです。その「未来」を奪われ、さらに地域からはあらぬことを言われ…、いったい被害者である息子が何をしたというのでしょうか?

 どうか…公正な司法の場で、息子の無念を晴らしてください。